江戸には、東海道沿いの「鈴ヶ森刑場」と日光街道沿いの「小塚原刑場(荒川区南千住2丁目)」、
八王子・浅川河原(八王子市大和田町)の「大和田刑場」と3ヶ所の処刑場がありましたが、
慶安4年(1651年)に東海道沿いに設置された刑場が鈴ヶ森刑場です。
この鈴ヶ森刑場で処刑された人たちの供養のために建てられた寺が大経寺であり、
そのため刑場跡地には数多くの供養塔が建てられています。
八百屋お七は、恋人に逢いたい一心で放火を起こし、ここ鈴ヶ森刑場で罰せられたと言われていますが、
この場所でお七の恋心が燃え尽きたことにちなみ、今も男女の縁、病気、仕事、酒、煙草、賭事など、
さまざまな悪縁を一度断ち切り、良縁や新たなる出発へと繋がる場所として存在しています。
東京都史蹟 鈴ヶ森刑場跡
鈴ヶ森刑場は、慶安4年(1651)に、大井村浜川の東海道往還西側の五反歩を召し上げてつくられました。それまで江戸の刑場は、北の浅草・南の芝の二ヶ所に設けられていましたが、 幕府成立から半世紀近くたち人口も増え、刑場付近まで人家が立ち並ぶようになったので、 より人目につかないところへ移されることになったのです。 このとき浅草から千住に移されたのが北の小原塚で、芝から移されたのがこの鈴ヶ森刑場だと、 歴史の書に記されています。当時は目の前に海岸線が開けており、 刑場は、波打ち際にあった1本の老松にちなんで「一本松」と呼ばれていましたが、 大井村の隣の不入斗(いりやまず)村に鈴ヶ森八幡があったことから、 いつの間にか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになったといわれています。 以来、明治4年(1871)に廃止されるまで、数多くの有名無名の人たちがここで処刑されてきましたが、 それらの処刑に使われた台石や多くの供養塔が日蓮宗大経寺の境内に集められ、 昭和29年には「鈴ヶ森刑場跡」として東京都史蹟の指定を受け、 品川百景のひとつにも選ばれる貴重な文化遺跡になっています。
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