近世の大衆文化を語る、大経寺の刑場跡

鈴ヶ森で処刑された者は、歌舞伎や講談に登場する平井権八、 八百屋お七、天一坊、白木屋お駒など、有名な人物も数多くいますが、 大部分は記録にも残らない無名の人物だったようです。 江戸幕府の基盤になっていた「士農工商」の身分制度を維持していくためには 絶対であるお上の役人が事件を解決できないということは許されないことだったのです。 事件が迷宮入りしそうなとき、まず犯人に仕立てあげられたのは、決まった家を持たない 「無宿人」たちでした。彼らは、すべての犯罪に対して罪人をあげなければならないという事情だけで、 無実の罪で殺されていったのです。事実、そういう受刑者が全体の四割ほどもいたといわれています。 当時の拷問は凄まじく、無罪を主張し続けるのは、不可能に近いことだったのです。 江戸時代、「五人組」の制度などで各村や町の共同体は強く結び付いていましたが、 はからずしてそれは、まわりの者からいわれのない罪を押しつけられることのないようにという、 自衛のための一面も持っていたのです。それゆえ「村八分」にされることを非常に恐れていた民衆たちは、 家の者から捕らわれ人が出ると、処刑を待たずして、その者を「勘当」してしまうこともありました。 「勘当」して戸籍を抹消してしまうことによって、一族の者に害を及ぼすのを避け、 家の体面を保ったのです。けれども中には、不要な死人を出さないために、 他の罪もかぶって処刑されていった義賊もいました。 難を逃れた民衆たちは刑場の陰で手を合わせ、 名も知らぬ恩人の冥福を心の中で祈ったのです。

八百屋お七

鈴ヶ森の歴史を見つめてきた題目供養塔

3メートルを超す御影石に、ひげのような筆太の字体で深く彫りこまれた「南無妙法蓮華経」の文字——

これが、歌舞伎「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなづま)」で、 平井権八と幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)が出会う「鈴ヶ森の場」には必ず出てくる題目供養塔です。 「ひげ題目」で有名なこの塔の裏には、「元禄十一年(1698)法界のためにこれを建つ願主法春比丘尼 同谷口氏」 と彫られています。この法春と いう人は謎の多い人物なのですが、 「お犬様」といわれた5代将軍綱吉の時代に、 犬を傷つけた咎で処刑された一人息子を悼んでこの塔を建てたという言い伝えも残っています。

題目供養塔

丸橋忠弥、八百屋お七が殺された処刑台

供養塔のそばには、実際の処刑に使われた「磔台」「火灸台」が当時の姿そのままに残されています。 磔台の中央に開いた四角い穴に角柱がたてられ、丸橋忠弥など磔にされた罪人たちは、 その柱の上部に縛りつけられて刺殺されたのです。 これら処刑者たちの首は、「首洗いの井」として残る刑場内の井戸の塩水で、 役人が血しぶきを洗い落とした後、さらし首にされたのでした。歌舞伎「八百屋お七」の最後で、 お七が生きながらにして火あぶりにされる場面は有名ですが、事実、放火の罪人たちは、 この火灸台の上で鉄柱に繋がれ、生きたまま焼き殺されていったのです。 また、歌舞伎や講談では大岡裁きによって一件落着する天一坊も、 ここ 鈴ヶ森で獄門台の露と消えたとの記述が残っています。

磔台

▲磔台
真ん中の穴に角柱を立て、罪人を縛りつけて刺殺しました。

火炙台

▲火炙台
真ん中の穴に鉄柱を立て、処刑者はこの石の上で生きたまま焼き殺されました。

「お首さま」に表れる民衆の心

江戸時代の終焉にともない、いままでの制度・法律が廃止され、鈴ヶ森の刑場も明治4年に閉鎖されました。 最後の処刑者として知られる渡辺健蔵は、ここに墓が残されている唯一の人物です。 明治初頭、旧幕府軍と官軍の戦いがし烈だった頃、官軍は地元民に米や金を強要するなど、 さんざんな振る舞いをしていました。 元幕臣・渡辺健蔵は、民衆の難儀を見かねて池上本門寺に陣を張っていた有栖川宮(ありすがわのみや)に直訴に行くのですが、 それを「官軍に対する謀反である」とみなされ、捕らえられてしまいます。 そして、現在のりょうぜん橋のたもとで首を落とされ、さらし首にされてしまったのです。 民衆は、義侠心のあつかった健蔵の死を悼んで墓をつくり、「勇猛院日健居士」という尊称を戒名につけてここに祭ったということです。 このお墓をお参りすると首から上の病気が治ると言い伝えられ、毎年多くの参拝者が供養に訪れています。 反逆者として政府に殺された健蔵を、「お首さま」と奉った民衆の胸の内には、 政府の執政に対する無言の抗議が含まれていたのかもしれません。